書へのアプローチ

“毛筆教育の危機”

元本院最高顧問 杉岡華邨(1913~2012)

 「日本書紀」によれば、応神天皇の代に百済から王仁が来朝して論語10巻と千字文1巻を献上した。6世紀の頃である。論語は経書であり、千字文は書道の手本である。

 とすれば、おおざっぱな言い方になるが、日本史の黎明以来、毛筆習字教育が始められたと解して良いかと思う。 爾来、場所はどこであれ、重要な教科として毛筆教育は連綿と続けられて来たのであった。奈良時代には、聖武天皇や光明皇后を頂点とする天平文化の盛期を迎え、平安時代になると、初期に三筆、中期に三蹟と呼ばれた書の名手を輩出し、古筆の名宝が数多く残された。 この時代の貴族の女子教育の必須科目の第1位は書であり、男子においても第2位の重要性を占めていた。その後も書教育の重要性には変りなく、江戸時代になると寺子屋において「読み」「書き」「そろばん」という教科体系が定着したことでもわかるように、 庶民教育の必須科目には必ず「書」が取り入れられてきた。近代に至るまで、能筆は教養度を計る物指とされていたのである。

 しかし、昭和20年(1945)の敗戦後、書道はわが国の小・中学校の教科からはずされたのである。理由は、日本の小・中学校生徒の日常生活では毛筆が使用されていないというものであった。 当時、アメリカの教育学者デューイの経験主義的教育思想が、日本の教育審議会を支配していたのであった。伝統ある日本の毛筆習字教育は、昭和22年(1947)以降、小学校の教科から消され、その後、昭和26年(1951)から昭和40年(1965)3月までは、義務教育ながら、やっても良いし、 やらなくても良いという曖昧な選択科目として放置されてきた。教育界・書道界は喧喧囂囂の状態であったが、毛筆教育の必要性に確固たる理論的根拠の提示が薄弱で、心情的な論が支配的であったために、必須時間に戻すことが出来なかった。それでも日本人に潜在する伝統的書道への郷愁が、 熱意ある訴えに押されて、「小学校でも毛筆で書く効果的な機会がある」との理由で、選択科目という変則的な形でやっと取り上げられた。昭和43年(1968)と平成元年(1989)に、正しい姿に復帰したが、毛筆教育の空白の期間が長くて指導者の養成も充分とは云い難く、 実践には頭の痛いことであった。各大学に書道科が設置され、ようやく毛筆指導の教育者が養成されかけてきた。

 しかるに再び、文部省(現文部科学省)はゆとりの教育と称して学校週5日制の方針を打ち出し、それによって減少する授業時間数の皺寄せは芸術科目時間の削減という形で現れてきた。 毛筆教育は又も風前の灯である。

 日本語は、日本文化の中でも最高の文化である。日本語の言葉と文字は、音声言語と文字言語がどちらも大事であるように、大切にされねばならない。良い文字を書くということは、美しい日本をつくることである。にも拘らず、近代になって、日本の伝統的文化である「書」は、 常に時代の波に洗われるという運命にあった。今日の危機的状況は、我々書道人として大いに考えなければならない問題であると思う。

<平成14年(2002)11月>