書へのアプローチ

今日の書・これからの書 “誰もが読める作品を”

元本院最高顧問 村上三島(1912~2005)

 21世紀を迎えようとしている時、「書」には中国にも日本にも色々考えなければならぬことがあるようです。 やはり時代の流れが、文字についても、書についても、変化を余儀なくさしてゆくように思われます。 それを変えまいとしても、変わってゆくのが流れです。 日本では古代より続いた中国文化が欧米文化に100年の間に替わってしまったように、今後どう変化するのか想像が出来ません。 私は書家ですので、特に書について考えたいのです。 先ず中国では漢字2386字の簡略体が生まれたことです。 現在小、中、高の教科書は全部簡略体が用いられ、なお公文書も同様です。 一般社会に使用されている印刷物も、時々来る手がきの手紙、印刷物も何という字か分らぬ文字が随分あります。 それでいて中国の書家は簡略体を使用しないで、 以前からの繁字体ばかりで作品を書いています。 尤も簡略体には篆書、隷書、草書がありませんので、 繁字体の文字を書くしかありません。 以前上海との交流展で釈文はどうしましょうと尋ねましたところ、 書は美術作品ですから釈文は不要、との返事がありました。 その時そんな一言でかたずけてよいのだろうかと思ったことでした。 現在も中国の作品も日本の作品も全部繁字体で書かれていて、 その通りの釈文をつけたら、恐らく中国の若い人達は読めないのだろうと思いましたし、 もし釈文に簡略体を使用すれば、作品の文字と違うじゃあないかと指摘されることでしょう。 ですから中国の書家の書いた作品は、若い人達にとっておおよそ縁のないものとなりつつあります。 篆、隷、草の作品は勿論のことです。 如何に李白の詩がよかろうと、杜甫の詩が好きであっても、読めなかったらどうなるんでしょう。 昨年、最近中国書家の代表とでも言える啓功先生を団長とする訪日書法家の6人とお会いしました。 その時上記の問題をどうされるのですか、と私が尋ねましたら、 先生は「そうした問題は、同席の劉炳森、瀋鵬兩先生(啓功先生より20歳位年下)、この人達がいずれ解決してくれるでしょう」と逃げられてしまいました。 これは中国の書にとっては、仲々解決困難な問題として残るでしょう。

 現在日本の書作品が、美術としての書ということばかりに専念して書かれている為に、漢字作家は漢字ばかり並べた漢文なり漢詩なりを全部が書いています。 それらの作品は先ず一般の人達には読めません。 かな作家は俳句なり、歌なり文なりを変体がなを使い過ぎる位使って書く為に、これまた漢字作品と同じように一般の人達には読めません。

 書家の書の展覧会の書はいずれの作品も特別の素養のある人に限り鑑賞したり、読めたりするのであって、 ある見方からすれば、社会から浮き上がっている、見放されているとも言えます。

 漢文、漢詩はある見方からすれば亡んでいるに近い過去の韻文学です。 また、変体がなは、明治33年に日本語からはずされている文字であって、現在の日本語は漢字と平かなとカタカナとしかないのです。 これからの書には誰でも読める書があってほしいと切に願うわけです。 漢詩の好きな人は勿論白楽天でも王維の詩でも、彼等が何歳の時、何処で何に出逢って、この詩の感慨になったのかを知り尽くした上で作品にしてほしいし、 その上に自分のこころの響きを書いてほしいものです。 また、どうしてもここは変体がなを使うという作品でもよいと思いますが、その上に平易な話し言葉でもよい、一般社会人が全部誰でも読める、 漢字かなまじりの作品が、それぞれの個性豊かな作品として生まれてほしいのです。

 ただこの誰でも読める作品、鑑賞に価するものとなると凄くむつかしいのです。なぜかと言えば、漢字ばかりの作品は2500年以上歴史があり、無数に近い上手が残した古典といわれるものがあります。 かなにすれば平安朝以来の1200年にわたる古筆といわれる名品があります。いずれも自己形成の為の大事な栄養なのです。私達の今の日本語、漢字かなまじりの言葉、漢字と平がなだけで書くということは、古典も古筆もないわけで、 つまり参考書のない書であり、私達今日の日本人が作り出さなければならぬだけに、とても大変なこと、むつかしいことなのです。しかし今始めても30年かかるか、50年かかるか、わからない大仕事なのですけれど、 今や一般から見放されようとしている書だけに、亡ぶかもしれないという懸念があるゆえに、敢えて今やり始めねばと思っています。今日のワープロ、パソコンの発達は「書く」ということから、文字を文章を「打つ」という時代に変わりつつあるようにも感じます。 小学生に至るまでワープロ、パソコンを一台づつ持つようになれば、書くということがどう残るのでしょうか。 世のほとんどの人の読めない時代の書への心配は増すばかりなのです。

<平成7年(1995)2月10日発行、会報88号より>