書へのアプローチ

“表音文字を書く”

元本院名誉顧問 宮本竹逕(1912~2002)

 吾々の使っている文字を大きく分けると、表意文字と表音文字となる。漢字作家は表意文字を使い、かな作家は表音文字を使う。

 表意文字は1つ1つの文字が意味を表わしているのだから、作家が創作の時、文字を大きくしたり、小さくしたりすることは出来るが文字を変えることは出来ない。

 表音文字は、文字の通りに音だけを表わすのであるから、同音の文字が沢山あることになる。「は」を例にとれば、「は」「ハ」「波」「盤」「半」のようになる。他の文字もみなこのように沢山の同音の文字があるから、作品創りの時は、自由に文字を変えて調和のよいものを創ることが出来る。この文字を変換することが出来るということは、表音文字を使うものにとって誠に都合のよいものであるといえる。

 古代の日本人は、中国から漢字を輸入した。勿論表意文字としての漢字を輸入したのであるが、この漢字の音をとって、日本の言葉を表わす工夫をした。中国と日本では言葉が違うので、表意文字そのままでは使えない。そこでその音をとって日本の言葉を表現することを仕上げたものである。誠に立派であったと言わざるを得ない。吾々はこの文字を「万葉仮名」と呼んでいる。

 平安朝のはじめの頃は、1000字もあったそうであるが、だんだん整理されて、中期には350字位になったとか。平安時代の書人は、この350字の万葉仮名を自由に使って立派な作品を創った。当時の書蹟即ち古筆を見ると、このよさがよく分る。仮名作品のよさを一口に言うならば、調和のよい文字を連ねたことにあると思うが、この350字の中からこの場所にはこの恰好の文字が最適であると断言しているようである。余程の修練による自信があふれているようだ。

 さて次に吾々の作品創りのことであるが、吾々は文字を重ねて書いていく。それで次の文字は・・・と考えるのが当然だと思うのはよくない。この・・・を文字の上にもってくる。そして「恰好」のよい字を入れる。即ち、次の恰好はと考え、小さい字がよいとなったならば、350字の中から、同音の小さい文字を見つけるのである。そうすれば調和がよくなる。このようにすると変化と統一のとれた1行が出来上がることになる。次の行もそのようにしてつくり上げて、前の行との調和を考える。すると行と行との調和がとれて、作品へと進めるのである。

 次の恰好を考えて次に文字を考えということを書いたが、こんなのでは作品づくりに流れが悪くなって支障を来たすと言う人があると思うが、修練をつんでくると、そのよい恰好の文字が自然に出てくるようになる。はじめは恰好の次に文字を考えるということを繁雑に考えるのであるが、頭の中にある350字の中から、その場所に恰好のよい音の字が飛び出してくると考えてみれば、この繁雑さもなくなってしまう訳だ。この順序により修練をつむことによって、よい作品になるのだと思う。

 次には筆であるが、特に大字を書く場合、筆を全部おろすと、書いていくうちに曲がってくる。筆管を手で固く握りしめている場合、筆が90度に曲がったとしたら、 いやそれ以下でも、筆の腹で書くようになって変なものになる。筆管は固く握りしめないで落ちない程度にしておいて、筆先が曲がってきたら、筆先が紙に対して直角になるように持ち換えるのがよい。この筆を持ち換えるということは、瞬時にやらねばならぬことなので、これ又大変な修練を要することになる。

 前記の「文字を考えるさきに先ず恰好を考える」ということ、そして今の「筆管を持ちかえる」ということ、共にむずかしいことで大変な修練を要するものである。修練を貫いてこそ立派になれるのに、途中で逃げてしまってはいけない。昔の人は「手に覚えさせよ」と言った。頭の悪い手に覚えさせるのには、何年も何十年もかからなければならぬことだということだと思う。

 かな人も表意文字を使う。表音文字と表意文字との調和というむづかしいこともやらねばならないが、残数も尽きたのでこの辺でおく。

<平成7年(1995)6月10日発行、会報89号より>