書へのアプローチ

“独り学ぶ”

元本院最高顧問 古谷蒼韻(1924~2018)

 司馬遼太郎著「風塵抄」の中の”独学のすすめ”を、氏の訃報の直後に読んだ。

 「中学1年の英語の時間にニューヨークの地名の意味を質問したところ『地名に意味があるか!』と、ひどく叱責を受けたが、 家への帰路、図書館で調べたところその由来が綿密に書かれていた。私の学校ぎらいと図書館好きはこの時始まって以後”独学癖”がすっかり身についた。ただし”独学”は万能ではない。ひとりよがりの危険に陥ることを常に感じておかねばあぶない。いい先生につきながらの独学独思が最も望ましい。 その幸運にめぐまれれば」。

 ざっとこんな要旨である。 我が意をえたという思いと、書を学ぶ者が持たねばならぬ心得と殆ど同じ点に驚いた。師についていようがいまいが書を学ぶことの基本は”独り学ぶ”行為だと思う。自分の見かたで、自分のやり方で、自分だけのものを創る。 これは単に書にかぎらず、どんな芸術においても至極あたり前のことと思う。しかし、このあたり前のことを、正しい方向性を見失わぬように実行し成果をあげることはなかなか難しい。つい安直に妥協したり道草をしてしまう。このあたり前のことが容易にできるのであれば、もっと多くの個性の花が咲き乱れているものと思うが、 難事だけについ道草をして類型の中に埋没してしまう。しかし”独り学ぶ”の心がなければよき個性は生まれないし、ひいては、日本の書の発展や、書の日本文化の中での高い位置づけへの道を阻害するのではないか、そんなことを思っていた矢先、武満徹氏の死去が報じられた。ストラビンスキー、 メシアンらと並ぶ20世紀を代表する世界的な作曲家だが、正規の学校も出ずほぼ独学で作曲法を習得されたらしい。

 「習わなかったから、いま(自分風の)作曲できる。」

 氏のことばである。

<平成8年(1996)11月10日発行、会報95号より>